「職人の法則」と言うのは、
「熟練者程良いものを安く作れる」
と言うものです。

この概念のヒントをくれたのは、小谷口剛さんです。

ある発想を元に作品を発注したとします。

若い職人は、一生懸命に下書きをし、見本を作り、発注者の意図を確かめ、
いくつかの試作品を示し、発注者の意図を実現しました。
10日と数千円の材料費がかかりました。
この時、わかりやすく、一個千円かけて10個作ったとしましょう。
一万円です。
若い職人だから、遠慮して、日当を5千円にしました。
10日で5万円。
合計6万円。

さて、ベテラン職人さんに頼むとしましょう。
「暇な時にやっとくけど、それでええか」
「片手間やし、そやなあ、材料費だけもろとこか」
先の職人さんと、同じ材料なら一万円です。

上の話は、小谷口さんの話に具体的な金額や時間を適当に加えて、私が作りました。

こんなことってありますよね。

ポールホフスキー・マイダンの仕事を見せていただいて、そんなことを思い出しました。

神業です。

が、焦らずに・・・・

訪問から書きます。

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まず、家です。

突然の訪問。

ビクトルが交渉します。

見せてくれることになりました。













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木材です。



















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作業台に斧がありまして・・・・



















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斧で木材の先を、少しだけ、細く削ります。


















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旋盤のチャックに木材が打ち込まれていまして・・・・

ここに穴を開けています。
















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この穴に先程の木材を打ち込みます。

マトリョーシカは上下に分割できます。
まず、上部分を粗削りしておきます。

それから、下部分を削って、












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これに上部分を食いつかせて、まとめて全体の形を削ります。

彼は、上半分を下半分に食いつかせるときにロクロを止めません。
回転しているままに押しつけるのです。
そしで、まとめてマトリョーシカの形に削ります。

そのまま削って、仕上げて、私にくれました。

あまりきっちりくっついていますから、私の力では開くことができません。

私だけなら、非力ですみますが・・・・
デニスも開けることができません。

それを見た、彼

ロクロのチャック部分に別の木を打ち込んで、削って、私にくれたマトリョーシカを取り返して・・・・

先に削った穴に、このマトリョーシカの頭をねじ込みます。
頭が食い込む程度の穴(雌型)を作ったのです。

この間もロクロを止めません

そして、マトリョーシカの上下食いつき部分を、少しだけ削ります。

マトリョーシカの上下食いつき部分は多分1ミリも削ったらゴソゴソになってしまうでしょう。
ほんのわずかに削ったはずです。

少しだけ、軽く開くようになりました。

軽業を見ている思いがしました。

次は絵付けです。
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ビクトルの妹さん。

お食事を出して頂きました。

そして
絵付け。

一発で色を塗ります。

平筆のそれぞれの側に違う絵の具をつけて、クルッと回すと、不思議な円模様が描けます。

くるくる筆を回す内に、円が並び、模様ができます。






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そんなこんなで、30分もかからずに描ききってしまいました。

ちょっと、待って・・・・

扇風機で乾かして

ニスを塗ります。

こんなに早くできたら、きっと、安く売れるでしょう。







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マトリョーシカの横にある缶がクリアラッカー。

これを手で塗ります。















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そして

記念撮影

















 この村でマトリョーシカを作るようになったのは、多分1940年代だろうと思います。
 
 「だろう」と書いたのは、

 そんな資料がないのです。
 マトリョーシカ博物館初代館長のサラヴョーヴァは、ソ連時代もこの村はイースターエッグを作り続けたと書いています。

 キリスト教を禁じたソ連当局が干渉しなかったのは、あまりに僻地なので当局が意識しなかったというのです。

 そんな僻地だから、アリョーシャは来たがらなかったのです。

 マトリョーシカを作る話です。

 マトリョーシカの誕生は1899年プラスマイナス1年。1988年説が有力です。
 これがニジニノブゴロドに伝播したのが1940年代。
 同じニジニノブゴロド州でも、メリノボの方が先で、ポールホフマイダンの方が後になったはずです。
 というわけで、この地方がマトリョーシカを作り始めてから70年ほどしかたっていません。
 でも、木工ロクロの伝統は長いのです。

 ソ連時代に当局が意識しなかったような僻地。
 今も道路は未舗装。
 そんな環境で、延々と木工ロクロ産業で生きてきた村です。

 受け継がれる伝統の力のようなものを感じました。

 最近ネット情報がどんどん増えます。

 ふと気になって検索してみたら・・・・
 ポールホフスキー・マイダンの歴史に関する記事がヒットしました。

 概略ですが
 1920年頃、セルギエフ・パサードから木工が伝わった。
 無彩色の食器を作った。
 やがてポールホフスキー・マイダンの絵付けが発達した。

 というような記事です。
 まだしっかり訳していません。
 下がリンクです。

 Полхов-Майданская роспись